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みんなの「講演会」ブログ


木簡が語る知られざる飛鳥

2008/07/13 12:15
昨日は、両槻会の第9回目の定例会で、飛鳥資料館の会議室をお借りして講演会が開催されました。
今回の講演テーマは、この10年の間に大量に出土した木簡が語る飛鳥のお話で、講師は奈良文化財研究所都城発掘t調査部の主任研究員の市 大樹先生です。

市先生は、発掘された木簡の解読を担当されている気鋭の考古学者で、先般も、藤原宮跡から出土した「右大殿荷八」の木簡の「右大殿」が藤原不比等を示すもので、出土箇所の近辺に不比等の屋敷があったのではと推定され、注目されています。

今回の講演では、飛鳥の中でも特に8000点に及ぶ大量の木簡が出土した「飛鳥池遺跡」(万葉文化館建設地)を中心にお話をお聞きすることができました。
この大量の木簡の解読を通して、富本銭出土で注目された飛鳥池遺跡で、当時この工房の第一線現場で金属製品の生産に携わった渡来系技術者の工人たちの姿が見えてくるというお話はとても感興のあるものでした。

木簡に記された東漢人を中心とする工人名や地名(朝妻、佐味)から、葛城山麓に住み着いた金属生成の高度な技術者集団が、葛城氏の滅亡とともに蘇我氏に取り込まれ、蘇我本宗家の滅亡とともに、天皇家に引き継がれていった過程が見えてくるという。

律令国家草創期を先進的技術を持って生き抜いたこれら渡来系の氏族は、動乱の古代史のテクノクラートとして、この国のかたちつくりに大いなる貢献をした様が、木簡の断片から読み解っていくことができるというお話を聞いていると、木簡は土の中に埋もれた生の第一級の資料であると思われました。

一つの木簡の短い文字断片だけで、それが何を目的に、何について書かれているのかを読み解くのは至難の作業であろうと思われます。しかし、近時大量に木簡が出土するようになって、これまで不明だった木簡の断片が語る古代史の現場が垣間見えてくるようなになったようです。これまでは文字の判読が困難だったものが赤外線写真の分析技術などによって読み解かれつつあります。

遺跡や遺構から出土した木簡を読み解くまでには、周辺木簡の出土や解析技術の進歩に待たねばならない木簡が多数あり、解読内容が定着するまでにも時間がかかるようです。それまで一定の解読作業を終えるまでの木簡は水漬けのまま保存されているというお話でしたが、全国に35万点もあるとされる木簡の読み取り作業は、まさに気の遠くなるような作業です。

これからも出土するであろう木簡によっては、数十年の歳月を経てあらためて注目を浴びる忘れられていた木簡も、古代史を塗り替えるような解読が行われる可能性もあり、木簡が語る知られざる歴史の断章に興味を強くひきつけられる講演でした。

講師を快くお引き受けいただき、貴重なお休みのときを割いて熱心にお話いただいた市先生や、会場として飛鳥資料館を提供いただきました杉山先生や館員の皆さんにお礼を申上げます。ありがとうございました。
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高松塚その後

2007/11/19 20:28
先日、大阪市内で開催されている歴史セミナーの講座の一環として「いま飛鳥京の考古学は熱い」という講演があったので、参加してきました。
講師は明日香村教育委員会文化財課主事の相原嘉之先生です。両槻会でもお世話になっている先生の講演会とあって、せひともお聞きしたかった講座でした。
講演内容は、高松塚の石室解体に伴う発掘調査結果を中心としたお話を、多数のスライドをまじえながら1時間半ほどお話になりました。

昭和47年に今は亡き網干先生が発掘された高松塚古墳は、石室内に描かれた壁画で一躍脚光を浴び、今日の考古学、古代史ブームを巻き起こした発見でした。考古学、文化財に関する報道が新聞の一面で取り上げられることになったのも、この高松塚古墳の発掘が果たした役割が大きかったといえます。

昭和49年には、飛鳥美人に代表される古墳壁画は国宝に指定され、墳墓も地元管理から離れて国が管理する特別史跡となり、壁画は恒久的な保存施設の中で守られることになりました。

保存施設が設けられた古墳内で壁画はしっかりと守られていたと思われていましたが、5〜6年前から壁面に黒カビが発生し、発掘当時に比べると、壁画の劣化が著しく進んでいました。墳丘に覆われた石室内は、人の出入りや外気から遮断される保存施設で安定し、あまり変化はしないものですが、狭い石室内での作業事故やカビの発生状況が公表されず、後に判明した地震などの自然災害と人災が重なって劣化が進みました。

壁画と石室を一体で現地保存することでは、壁画の劣化をこれ以上食い止められない。古墳を守るか壁画を守るか、日本に高松塚とキトラの二つにしかない壁画を守ることを優先すべきか、様々な意見がある中で、結果として石室解体という苦渋の選択が行われました。解体修理という手法には、垂直の壁面や天井壁面に描かれた壁画を、横転、反転させて壁画を上向きにすることで、修理中の崩落のリスクを回避することが出来るメリットがあると考えられました。

こうして壁画を守るために墳丘を崩し、石室を解体することになりましたので、文化庁からその発掘調査を、奈良文化財研究所、橿原考古学研究所、明日香村に委託されることになりました。発掘方法としては、古墳全体を覆う覆屋を作り、墳丘を崩す範囲を最小限にするため石室部分を墳丘から垂直に掘り下げることになりました。


不幸にして石室の解体ということになりましたが、この解体に伴う発掘調査によって、なぜカビや虫が侵入し壁画を劣化させることになったのかを考古学的に検証し、解明するという直接の目的と同時に、古墳築造、石室の構造を明らかにする機会でもありました。そしてこの発掘によって、キトラ古墳や今後もあるかもしれない第三の壁画古墳を、どう守ってゆくかを考えるための重要な発掘調査となりました。

石室解体の過程で、壁画を劣化させたカビを消毒しても除去できなかった原因も分かってきました。

天井石と壁石の間に隙間があり、その隙間にも裏側にもカビが大量に発生していました。石室内だけのカビを消毒除去しても、すぐに隙間から再びカビが進入していたことが分かりました。

さらに石室内に侵入した虫(ゲジゲジやムカデ)が壁面を這い回り、虫に付着したカビが石室内に広がる原因となっていたと思われます。

また虫の死骸や糞がカビの栄養素となり、虫がそのカビを食べて繁殖するという生物サイクルが出来上がっていたと考えられます。

現在、壁画はすべて無事に解体されて近くの修復施設に保存されています。修理に当たっての各石材の図面作りが行われ、10年後に再び古墳の中に戻せるかどうか、戻してもカビが再び発生しないことが可能かどうか、これからの課題です。

高松塚古墳発掘から35年間、文化庁は壁画は国宝、古墳は特別史跡という管理体制を最初に決めてから、途中で方向転換をしようとはしませんでした。カビをゼロにすることは出来なくとも、公表されていれば、壁画劣化を防止するためには、別な方法があったかもしれないと思われます。

この35年間の高松塚古墳が、これからに向けて今語りかけていること、それをわれわれは真摯に聞かなければなりません。
先生の講演は、このような言葉で締めくくられました。良い講演でした。
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第3回両槻会定例会

2007/07/14 22:03
7月14日、大型の台風4号が近畿に接近する中、第3回の両槻会定例会が飛鳥資料館で開催されました。
近畿地方が台風の暴風域に入るのは今夜半から明日未明にかけてのようで、講演会の開催に、幸い支障は生じませんでしたが、悪天候にもかかわらず、関東はじめ遠方からもご参加いただき、ありがとうございました。画像

今回の定例会は講演会で、飛鳥資料館学芸室長の杉山先生に講師をお願いし、高松塚出土の海獣葡萄鏡に関わる同鏡の類型と特色についてお話いただきました。

古代鏡については解説書や説明文を読んでも、正直あまり興味は出なかったのですが、やはりご専門のお話を直に聞き、参加者の皆さんとの質疑応答をお聞きしていると、海獣葡萄鏡がにわかに身近なものに感じられたから不思議です。
杉山先生の余談も鏡を身近に感じさせてくれた要因となったかもしれません。研究者社会の中の評価も、興味深く拝聴しました。

古墳から出土する副葬品としての鏡は、被葬者のステイタスとしてのシンボルかと思っていましたが、祭祀以外に実際の日常の用具としても利用されていたというのは、常識なのかもしれませんが太古にとっては驚きでした。

展示されたり図録に掲載されている鏡は、ほとんどが装飾文様のある裏面ですから、表面の鏡はどの程度、鏡としての実際の役割を果たしていたのか、と素朴な疑問をお尋ねをしてみると、やや灰色がかった鈍い結像で、見るにはいいかもという趣旨のご発言で、妙に納得できました。
実際の鏡と同じように鏡面に錫鍍金をして磨きこんだものを、手にとって見れるようにしたものが資料館で展示されていたそうですが、気が付きませんでした。

海獣葡萄鏡と呼ばれる装飾の中の獣は、トドやアザラシのようないわゆる海獣ではなく、描かれているのは禽獣のようなもので、海獣はこの種の鏡の普通名詞として呼称されているそうです。ん、なんで?とも思いましたが、そんなものかとこれも納得。

大陸伝来の海獣葡萄鏡が国産化されるのは奈良時代に入ってからとされているようですが、飛鳥池遺跡から国内で唯一、海獣葡萄鏡の一部と思われる鋳型が出土しているため、奈良時代以前から国産化されていた可能性があるようです。
もちろん古代鏡全体としては、はるか弥生時代から国内でも作られていたとのことでした。

鏡の成分分析や、あの複雑な装飾浮き彫りがどのように制作され、複製されていたのかのお話も、興味深いものでした。

講演に続く活発な質疑応答と、その後の先生も交えての座談会など、およそ2時間40分の今回の定例会は、近づく台風も忘れてしまうほど、濃密なひとときとなりました。

最後までお付き合いいただきました杉山先生には、お忙しい中、貴重な時間をやりくりしていただき、本当にありがとうございました。
おかげで、古代鏡の世界にも少しは関心を抱くきっかけになったような気がします。

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当日の詳細なレポートは下記をご覧ください。

;「海獣葡萄協について」講演会レポート(両槻会事務局、ももさん、風人さん)
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


第1回両槻会

2007/04/02 20:41
飛鳥好きの定例会「両槻会」の記念すべき第1回例会が、3月31日、橘寺の往生院で開催されました。
第1回目は講演会となり、講師には奈良大学文学部の滝川助教授にお願いすることになりました。
会の運営者である風人さんがお願いした演題は「吉野宮滝への道」。

先生のご専門は確か平安文学で、菅原道真、古今和歌をご研究だというから、古道好きの風人さんのご注文と定例会が掲げる飛鳥のテーマがどう結び付くのか、気安く引き受けられた先生に困惑はないのだろうか…と、ちと心配になりましたが、
太古は、日頃はお酒を飲んでいる先生のお姿しか知らないので、大学の先生の素顔を拝見できるいい機会と、個人的にはとても興味津々でした。(^_^)

で、サブタイトルを見ると「菅原道真の『宮滝御幸記略』を巡って」とあります。
「ん? 菅原道真と飛鳥はどんな関係があるんやろ…?」
聞きたい疑問はあるんですが、それは当日のお楽しみかも…と、口にする勇気もなくつい遠慮することになりました。

事前に先生から詳細な講演会のレジュメが送られてきました。
なんと、宮滝御幸記略の訓読と関係図などが記されたとても難解そうなシロモノです。
漢文や古文は高校時代に担当の先生から叱られた記憶しかありませんから、チンプンカンブン。
(ま、いいや。当日聞けばわかるじゃん♪)と、諦めのいい太古は、質疑の内容は風人さんにお任せすることにしました。
申し訳ないので、少しサイトを探して、宮滝御幸記略の優しい解説を見つけ、メール送信。
それでも少し気になった記述がありました。なんでも、高市郡に道真公の山荘があったと記されています。
どうもこのあたりが疑問解明のポイントかもと、勝手に納得して缶Bにしました。^m^

往生院に集まった皆さんは、難しそうなレジュメを前にうなだれています。画像
そのうち寝そうになるんじゃないかと、一応主催者の一人としてひやひやです。

ところが、滝川先生の講義が始まると、次第に参加者の緊張がほぐれるように、先生の流麗な語りに魅せられてゆくのが分かります。いかにご専門とはいえ、あの難解そうな古文をよどみなくすらすらと読み下していかれるだけでも驚きでしたが、ときどき挟まれるユーモラスなコメントに思わず文章に引きずり込まれてゆきます。

不安定な政治情勢から皇位の安定を図るため、我が子醍醐天皇に若くして譲位された宇多上皇が、まるで思い立ったような気軽な宮滝遊覧に出かける様子が、残された道真の宮滝御幸記の一部から推定されてゆきます。

先生の講義を聞いていると、これが実に興味深い記述になっています。吉野の宮滝を訪ねる上皇と都の政務を留守にしてお供する高位の貴族たちが、どのような旅をし、どのようなコースを辿ったのか。簡潔な文書(漢文)に認められた記録から、思わず笑いを誘う名講義に酔い痴れた時間でした。

結局、途中立ち寄った道真公の山荘は、先生が今回の講演のためにお調べになった結果では、久米寺付近にあったのではないかと推定されています。宮滝までのコースは壷坂山越えで世尊寺を抜けて行ったことになります。
ただ、なら坂から久米寺までの道程については、平城京と藤原京(飛鳥)を結んだ古道の下つ道を辿ったかどうかについては、平城京の出発門となった重層門が朱雀門であったかどうかによって違ってくるというお話でした。

平安貴族が旧都を辿り秋の数日を宮滝に遊んだ様子が、短い文章の中から実に興趣に飛んだ記録として読み取れることを、今回の講演で知ることができました。
難解でとっつきにくい古文に少しは馴染むきっかけになったかもしれないご講演でした。
滝川先生、ありがとうございました。また、風人さんのしかけに嵌ってください。よろしくお願いします。(*^^)v


先生からいただいたレジュメ(両槻会サイト掲載)




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発掘された蘇我氏の飛鳥

2007/02/03 23:31
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飛鳥資料館で開催中の発掘調査速報展 「飛鳥の考古学2006」
この速報展の特別講演会として明日香村教育委員会相原嘉之氏による「発掘された蘇我氏の飛鳥」をテーマに講演が行われました。
講演会は、前日に放映されたNHKの番組や、11日には甘樫丘東麓遺跡の発掘調査現地説明会が控えていることもあって、聴講者が場外にまで溢れる大盛況でした。

予想外の聴講者だったのでしょうか、ロビーにパイプ椅子を並べたり、スピーカーを設置するなど、臨時の対応に資料館職員の方もおおわらわでした。

古代史最大の出来事「大化改新」
蘇我氏はなぜ滅ぼされたのか、日本書記に記された内容が、甘樫丘に築かれたとされる蘇我邸跡の発掘が進むにつれ、新たな脚光を浴びています。

相原氏の講演にこれだけ多くの人が詰めかけたこと自体が、権勢を誇った蘇我氏に対する歴史評価に見直しを迫っているのかもしれません。


2月11日に発掘説明会が予定されている甘樫丘東麓遺跡

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